証明済みの創価学会の謀略体質 共産党・宮本議長宅電話盗聴事件≠検証する!! (第9回)

                      
  学会の盗聴資金は1000万円
           盗聴実行犯なども詳細に把握
 平和・人権を標榜(ひょうぼう)する宗教団体・創価学会が、公党の議長宅を盗聴するという、前代未聞の謀略事件。前回に引き続き、原告・宮本顕治弁護団による「第一審最終準備書面」(昭和五十九年十二月)を紹介する。
 同書面の中から、前号では「池田大作・創価学会の社会的責任」を引用した。  今回は、同事件の実行犯として、当時、どのような人物が加わったのか、を見ることにしよう。書面では、以下のように記している。
 「二、当時の各被告の創価学会での地位  1、被告 北条浩  被告北条浩は、創価学会理事長、副会長であり、池田会長に次ぐナンバー2、公明党参議院議員(元公明党副委員長)でもあった。
 被告北条の言論出版妨害問題で果たした役割は、証書で見るかぎりでも重大である。
 内藤國夫著『公明党の素顔』について、無断でゲラを入手し、事前検閲したうえ、出版中止を求めた事実(事前のゲラ入手の事実については、矢野公明党書記長が認め、大問題となっ た)。
 昭和四十三年九月、仏教評論家・福島泰照(本名・隈部大蔵)の創価学会批判出版の原稿を事前に察知して、被告北条は、赤坂プリンスホテルで著者に面会をし、『創価学会の青年部の情勢は、人間革命闘争に燃えている』『アリの一匹でも象は全力をもって踏みつぶす』と脅迫し、出版妨害を行なった事実が、著者によって暴露されているな ど、被告北条自身が、公明党・創価学会の言論出版妨害行為に直接手を染め、その中心メンバーの一人であった。また、前記のように、この言論出版妨害問題の対策の中心であった。」
 北条浩氏は、学習院から海軍兵学校(七十三期)に進み、敗戦時は中尉のパイロットであったという。  家柄がまたいい。北条子爵につながる華族の出身である。
 公明党・参議院議員、創価学会副会長などを歴任した後、昭和五十四年四月、池田大作氏の会長辞任を受けて、創価学会の第四代会長に就任した。  実直な性格で、会員の評判も良かったが、盗聴裁判の渦中である昭和五十五年七月に急死した。
 元・創価学会顧問弁護士、山崎正友氏は、生前の北条氏を、命がけで義経を守った「弁慶」に譬えている。ここでいう「義経」とは池田大作氏のことだが、「弁慶」の北条氏の葬儀において、「義経」の池田氏が、
 「暑い日に死なれちゃ困る」 と、毒づいた話は有名である。
 書面を続ける。
 「2、被告山崎正友  被告山崎正友は、京都大学在学中、創価学会学生部出身で初の司法試験合格者(昭和三十六年)となり、池田会長の厚い信任を得て異例の抜擢をされ、言論出版妨害事件当時、すでに創価学会副理事長・同顧問弁護士・法学委員会委員長・学生部主任部長の要職にあった(法学委員会とは、創価学会に所属する判事・検事・弁護士・司法修習生・国家公務員などの組織)。
 言論出版妨害問題では、被告山崎自身、数々の裏工作に関与したが、その追及が始まった後の昭和四十五年一月中旬以降、山崎は、前記のとおり公明党・創価学会の幹部中枢のメンバーとなり、連日、被告北条、秋谷、山崎(尚見)、竹入、矢野ら幹部との、言論出版問題に対する対策会議に出席するようになった。
 これは池田会長から、被告山崎に対し、『北条から離れるな。彼は疲れているし、判断を間違わないように、いつもついていろ』との指示によるものであっ た。」
 昭和五十三年、宗門VS学会第一次紛争が引き金になって、山崎氏が造反。打倒・池田氏の矢面に立った。
山崎氏は、週刊誌などのマスコミを舞台に学会告発を続け、学会組織による各種の盗聴行為も暴露。現在なお、山崎氏のVS池田の姿勢は変わっていない。
 「3、被告広野輝夫  被告広野輝夫は、当時、学生部主任部長としての被告山崎の下で学生部副学生部長、機関紙局長(昭和四十五年六月以降は学生部主任部長)の職にあった。
 被告山崎とは、昭和四十年ころから、創価学会学生部の先輩・後輩の間柄にあった。  広野は、当時の被告山崎について、『学生部初の弁護士であったということもあったし、才気煥発の人、(他の)学会幹部とは、ちょっと違ったタイプの人だということで、魅かれるものがあった』『抹香くさくなく、社会的問題についても鋭い問題意識をつけ、すぐ反応の返ってくる、安心して問題をぶつけられる人であった』と評している(昭和五七・一一・一七、広野本人尋問)。」  「4、被告竹岡誠治  被告竹岡誠治は、山崎主任部長、広野副学生部長(第五総合本部担当)の下で、学生部常任幹事の地位にあった。
 言論出版妨害事件当時、被告竹岡は、機関紙局次長として、事件に対処するための資料収集や、学生部機関紙『大学新報』で反共キャンペーンの執筆などを、精力的に行なっていた(昭和五八・一〇・二一、竹岡本人尋問)。」
 「5、被告北林芳典  被告北林芳典も同様、学生部常任幹事であったが、本件電話盗聴当時は執行猶予中の身であった。これは昭和四十三年に行なわれた参議院議員選挙における、いわゆる『新宿替玉投票事件(住民移動の激しい新宿区で、他人の投票権を大量に盗み、公明党のために組織的な替玉投票を行なった事件)』の主犯の一人として逮捕、起訴され、有罪となったものである(昭和五六・一一・四、山崎本人尋問)。当時すでに、とくに共産党の情報収集には執念を燃やし、その知識、分析に『優れて』いた(同)。」
 広野、竹岡、北林の三被告は、ともに創価学会学生部幹部出身。
山崎師団≠ニいわれ、対学会工作グループとして、種々の活動を行なってきた。  「6、各被告の序列  ここで重要な事実は、当時班長であった松本篤が甲第一二四号証の速記録三六頁以下で述べているよう に、
 『山崎さんは雲の上の人、広野さんは口をきける人ではなかった……』 と表現している、創価学会内の特殊な組織と序列である。松本にとって被告広野が、  『口をきけない人』 であったように、被告、広野、同竹岡、あるいは北林にとって、学生部主任部長としての被告山崎は、学生部の系列としては直接の身近な上級者であっても、『法学委員会委員長』『創価学会顧問弁護士』『創価学会副理事長』としての被告山崎は、広野らの活動とはレベルを異にした、創価学会・公明党幹部中枢の世界に身を置いていた事実である。
 また被告竹岡は、本件盗聴以後、被告山崎、同広野の下で、数多くの盗聴謀略活動に参加する中で、その後昭和五十三年七月、創価班全国委員長、昭和五十四年夏、創価学会副男子部長と、異例の抜擢の常任幹事にすぎず、被告広野との間ですら、明白に序列上の差のある立場であった。」
 ここに登場してくる松本篤とは、盗聴器を作成した人物である。
 書面は、右のとおり、被告者たちの創価学会での地位を明らかにした後、盗聴の実行を前にして、どのような謀議が行なわれたかを記している。
 「対日本共産党電話盗聴計画――最初の謀議  1、切実だった日本共産党情報の入手
 前記のとおり言論出版妨害事件は、創価学会を窮地に立たせ、池田大作会長をはじめ創価学会・公明党幹部らは、まさに『存亡の危機』ともいうべき認識をもっていた。  なかでも、創価学会批判の急先鋒であった日本共産党に対して、どう対処するか苦慮し、
 『その出方をさぐり、その意図を知るダイレクトな情報がほしい』 というのが、学会首脳の一致した気持ちであった(昭和五六・一一・四、山崎本人尋問)。他の党とは一定の『約束』をして、追及をやめてもらう繋がりはあったが、日本共産党とは『不倶戴天(ふぐたいてん)の敵』の関係であり、そういうパイプもなかった(同)。
 日本共産党対策の会議では、共産党情報について収集していたが、うまくいってなかった(同)。  昭和四十五年二月二十四日『赤旗』が、公明党渡部一郎国対委員長演説を暴露した際には、皆『日本共産党による盗聴』だと怒り、池田会長は『敵ながらあっぱれだ』『後手をふんでる』と幹部を叱咤(しった)していた(同)。
 被告広野は、渡部演説暴露の直後、被告山崎と『日本共産党による盗聴の可能性について話し、盗聴の技術や受信器を使っての発見の仕方など電話で話した(昭和五七・一一・一七、広野本人尋問)。』」
 公明党の渡部一郎・衆議院議員(現・引退)の問題発言とは、こうである。  昭和四十五年一月十一 日、渡部議員が創価学会学生部幹部会に出席し、渦中の言論出版妨害事件に関 し、
 「バカバカしい話」 等と発言。同事件の存在を否定し、なおかつ、追及する日本共産党などの公党を中傷した。  その十日ほど過ぎた二十二日、「言論出版の自由に関する懇談会」の記者会見で、渡部講演の全文が発表され、翌日の『赤旗』紙に掲載された。
 五日後の二十七日、渡部氏が先の暴言について責任を取り、公明党・国対委員長を辞任する。
 創価学会内部の渡部発言が、外に漏れたのも、同会は日本共産党の仕業(しわざ)と恨みを持ったようだ。
 こうした日本共産党への敵対心が、やがて盗聴へとエスカレートしていく。       (以下次号)


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