10.池田にもてあそばれ議員となった渡部M子の場合
 

 数ある大作スキャンダルの中でも、大作・M子の関係はやはり別格的意味合いをもつ。夫の一郎はそれを知りつつ、あえてM子と結婚した。

 そして生まれた一人息子に、名付け親の大作から、大作の次男と同じ城久の名を有難く頂戴した。「先生のお子さんと同じ名前を戴けて、私、夢を見ているような思い。幸せだわ」とM子は有頂天になったものである。

夫の一郎の心境は複雑だった。生まれた子が、自分の血を引いているのか大作の子なのか、疑っていたからである。

 お産のため入院したM子の見舞いにも行かなかったし、男児が無事誕生の知らせに接しても、喜ぶどころか、知らせの使者、M子の姉の藤原郁子にモノを投げつける荒れようであった。このおどろおどろしい話は、いずれも大作スキャンダルが表面化されるよりずっと以前のことである。

 池田はお手つき女性のお下げ渡しをする際の常套手段として、夫の一郎を衆院兵庫一区から立候補させ、すでに八回の当選を重ねる代償を与えた。そして、妻のM子にも、衆院東京一区の名門区から立候補のチャンスを与えた。

 M子は四万五千余票を集め堂々当選、ここに目出たくメオシドリ議員モが誕生した。昭和44年12月のことである。

 その後、47年の総選挙で落選すると、今度は一郎と同じ兵庫県から参院に立候補させ、当選させている。まだ、池田スキャンダルが周知の事実となる以前のこと。

 M子は池田との仲を隠すどころか、誇示してみせた。「池田先生に随順しなさい。そうすれば、私たち夫婦のようにオシドリ国会議員にもなれるのだから。」

 同じ姉妹でも、姉の郁子は先生の意に添わなかった"罰当たり"としていじめられ、妹のM子は身も心も棒げつくした模範人間として用いられる。学会内では知る人ぞ知る事実だったのである。

 ただし、噂が学会内にとどまっていれば、オシドリさんはずっと幸せだったし、夫の一郎は書記長、委員長コースを歩けたかもしれない。

 五十五年、池田スキャンダルが外部に徹底的に暴き出され、事情は一変した。

 M子は、一期限りで参院議員を辞めさせられた。党の婦人局長というポストも、婦人代表としてはイメージが悪すぎるだろうとの判断で、生活局長に左遷された。

 ダメージを受けたのは、夫の一郎も同じである。陽の当たるポストに就けば、なにかと池田スキャンダルの格好のタネにされる。後は飼い殺し、使い捨ての道が残されるだけ。《『スキャンダル・ウオッチング』77頁》


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